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〇菅沼剣友会と土屋伝蔵(土屋先生の手記より)

この会を造った私土屋は、明治42年10月19日千葉県夷隅郡国吉町の生まれで、小学2年生のときより彰義隊の落ち武者北辰一刀流達人穴浦次郎衛門先生について剣術を学んだ。

 

先生が老いてご逝去後、実業補修学校へ通学するようになり、大先輩田辺伊兵衛先生より同流を学び、同行卒業時に北辰一刀流切紙免許を授与された。

 

昭和4年現役兵として近衛工兵連隊へ入隊。除隊後東京に就職。石川雄之助先生について再び同流を学び奥義皆伝となる。出兵中マラリヤ病に倒れ野戦病院に収容され内地送還となり除隊となる。病気快復後三木青年学校指導員として勤務、昭和19年8月に憲兵司令部に入隊。後に名古屋憲兵隊剣道助教授となる。翌年の昭和20年8月終戦。

 

家でぶらぶらしているとき、その頃氾濫していた少年少女の非行、風紀の乱れに業を煮やした妙光寺の秋山和尚さんに剣道と礼儀作法を依頼された。

 

どうせ三日坊主だろうと思い簡単に無料教授を引き受けた。

 

そして故人となった恩師防具を西多摩のほうから15~6組取り寄せて、その名も西品川倫友会剣道部と命名し、昭和21年1月の第2日曜日から稽古を始めた。菅沼剣友会の前身である。

 

生徒は15~6名。稽古が終わると秋山会長が坊さん姿で剣道と礼儀、日蓮様と仏教のお話をする。稽古はお寺の庭、露天道場である。そして会長は秋山和尚、師範は土屋伝蔵。

 

さて、最初は余り期待はしていなかったものの、始めてみるとそれがなかなかの評判で生徒も次第に増えて30名くらいになってしまった。

 

稽古は益々盛んになるが、それも束の間、進駐軍司令部から剣道は止めろと命令が出た。

 

これは大変と思い、さっそく品川警察署長さんに聞いてみると、警察にはそういう通達があったが、子供がお寺の中でやっている事は何も言わなかったと、それが署長のご返事である。そこでそのまま続けるが、せっかく恩師譲りの防具もみな中古品だから、使っているうちに自然と傷んでくるし、竹刀の折れ、割れたりして駄目になってくる。もしこんな状態で怪我人がでたら大変と思い、丁度その頃私は虚無僧をやっていたので托鉢行脚で得たお金の中から一部を差し引いて防具の修理や竹刀の購入費に充てた。

 

私が何故、かようなことをしたか。それは敗戦のドサクサで何処の家でも食料の買い入れに大変でいたからである。そんな中で剣道の稽古は益々盛んになるが、これもほんの束の間、いつも稽古が終わると必ず会長さんがお坊さん姿で訓辞して下さるのが、この頃全然出てこない。それどころか、稽古をしているところへ水を撒いたり庭掃除をしたりという有様で、これではせっかくの剣道も駄目だ。それで庭掃除をしている小坊主達に、秋山先生はどうしたのかを聞いても、知らないの一点張り。そこで私は考えた。敗戦のどさくさで食料不足の時だからと思い、虚無僧行脚で得たお金で、進駐軍の兵隊から上等なお菓子などを買ってきて、剣道で色々とお世話になりますからと、住職に差し上げる。そうすると当分の間は大丈夫だが、少し過ぎると又々小坊主達が庭掃除を始める。これを繰り返すこと5,6回。私は諦めた。

 

何をやっても駄目だ。解散するより他に方法はない。しかし永年仕込んだこの青少年剣士達と、そう簡単に別れられない。何時か茶会話でもやって解散しようと思うと、何故か悲しくなって涙が出てくる。別れ離れになってしまえば、何もかもお終いだ。と思った。

 

この様子を外部から静かに眺めていたのが、地元選出の区議会議員新橋朝日先生である。ある日突然私の家に来て、「土屋先生ご在宅ですか?」「実は先生、町内の子供が、大勢剣道でお世話になっていますことを区議会議員として心より御礼申し上げます」と言うのである。

 

新橋先生は、お寺の止むにやまれぬ事情をこの土屋にお話しされた。そして新橋先生は、菅沼タイプライターの社長さんにこの事情を説明して、あの哀れな門下生を助けて下さいとお願いをされた。社長さんは、それは本当に可哀想だ。では、下の庭が空いているからそこを道場に使いなさいと言って下さった。それは昭和23,4年頃の事であるが、さて、道場にするにしてもこの庭は戦時中畑だったのですぐには役に立たない。土地がフカフカで、周りは断崖で非常に危険で防護柵もない。私は会社を休んで、お湯屋の旦那様に訳を話して古板等を沢山貰って一番危険な場所に防護柵を作り、砂を沢山買って道場に撒いたりした。それから稽古中に疲れた者が休めるように腰掛も沢山作った。

 

これでどうやら道場らしいものができた。そして5月5日の端午の節句に、警察署長さんや父母の人達に来てもらって、お粗末ながら道場開きをやったのである。新橋先生や署長さんから時代に沿った色々なお話や訓辞もあった。そして父母の方々からも有意義なお話があった。

 

しかし、ある少年剣士の母が申すには、「土屋先生は無料で教えて下さる。有難い事ですが、時折奇妙な格好をして笛を吹いて得たお金で剣道具の修理や竹刀を買っているそうですが、それは止めて下さい」と。とんでもない話まで飛び出してしまった。そこで私は申し上げた。「何も生徒皆にやっているのではない。子供は是非剣道をやりたい。親は家庭の都合で防具まで買えない。そういう子供が何名かいる。その子供達の為に虚無僧行脚で得たお金の一部を出しているのだから、何のご心配も無用です。是非ともご安心下さいと」申し上げた。

 

その場で新橋先生が先頭になって今迄使っていた剣道の名は使わないで、今日から「菅沼剣友会」と改めてはどうかと申し出があった。そして満場一致で賛成異議なし。そこで本日から「菅沼剣友会」と改名し、そして今度はこの菅沼剣友会の役員選出が始まった。

 

こうして、菅沼剣友会はの発足は、菅沼整一先生を会長に、名誉会長に新橋朝日先生にお願いし、その他各役員の方々の決定を行った。(当時の役員名簿を記した)

 

発足後、昭和46年(1971年)新橋先生の努力により三木小学校を借りられることになり、その後、昭和51年(1976年)より、橋本智幸先生を中心に若手が集まり剣道指導が移った。

 

平成2年(1990年)より、現武信修先生と仲間達で現在に至っている。

 

    <菅沼剣友会発足時の役員名簿>

      菅沼剣友会会長  菅沼 整一

      名誉会長       新橋 朝日

      会計会長       橋本 義一

      父母会会長     高瀬 与佐吉

      地元町会長     角野 裕治

      剣道師範       土屋 伝蔵

〇沿革